台湾高座会留日75周年歓迎大会ご協力のお願い


台湾高座会留日75周年歓迎大会会長 衆議院議員  甘利 明

 先の大戦中、日本は航空機生産に必要な優秀な労働力を台湾に求め、当時の国民学校(小学校)高等科卒業生を中心に、働きながら勉強すれば旧制工業中学校の卒業資格を与え、将来は航空機技師への道を開くと約束しました。多くの優秀な台湾少年が競って応募し、学力優秀、身体強健、優れた道徳心、親の了解の4 条件を備えた人たちが厳しい試験を突破して海を渡ってきました。

 配属先は、現在の座間市にあった新鋭戦闘機「雷電」を製造する高座海軍工廠で、寄宿舎は現在の大和市上草柳にありました。本廠の設備がまだ不十分なこともあって、全国各地の主要航空機生産工場へも派遣され、当時日本海軍が使用していたあらゆる航空機の製造に従事し、その技術と勤労意欲を高く評価されたのです。
敗戦により彼らは志半ばで帰郷、その後幾多の苦難を乗り越えて台湾の経済成長や民主化に貢献し、日本との友好親善にも台湾第一の知日集団として活動し、先の東日本大震災に当たっても大きな支援をしてくれました。

 その方々もいつか90 歳前後となりました。そこで、おそらく大規模なものとしては最後になるだろう台湾高座会留日75 周年歓迎大会を別記要領で開催します。皆様のご協力を心からお願いする次第です。

 


なぜ高座の友情は75 年間も続いてきたのか

実行委員長 石川 公弘

 

今も続く高座会毎月の例会

 台湾高座会の新海区会は、まだ例会を行っており、平均90歳の方々が20人ほど毎月会場へ集まってきます。お独りで来る人もあれば奥さんやお孫さんに付き添われてくる人もいる。そして昼食をとりながら談笑し、2時間もすると解散する。なぜ彼らの友情はかくも強くそして長続きするのか。私はずっと考えてきました。そしてようやく結論らしいものに到達しました。
 高座の2年間は、厳しい日々の連続でした。経験したことのない寒さ、不十分な食事、安眠を妨げるノミやシラミ、勉強に来たのに仕事一辺倒、銃爆撃の恐怖、こうした悪条件の中で、彼らは航空機生産という国家の要請を見事にやり遂げました。台湾高座会の人たちはそのことについて強い自負をもっています。それは自分に対する自信であると同時に、全く同じ環境下で見事に責任を果たした仲間への尊敬でもあります。そこから生まれた信頼と友情は、生涯弱まることがないのです。


日本人の優しさを示す善徳寺の少年工慰霊碑

 それでは高座会と日本人の関係はなぜかくも長く続くのか。それは双方が心優しい民族だからと思います。優しいひとだけが相手の優しさも理解できる。特に台湾人の心の優しさは特別です。彼らは日本人の優しさに激しく、倍も10倍も反応します。その例を私たちは、東日本大震災に対する世界一の支援に見ることができます。
 日本人の優しさを示すのは、何と言っても早川金次さんが善徳寺に柳沢住職の協力を得て建立した戦没台湾少年工慰霊碑です。戦災で失った自宅の復興より先に少年工慰霊碑を建立した早川金次さんの義挙は、圧政下で苦しむ元台湾少年工の心を揺さぶり、再び日本へ目を向けさせました。


平和な生活の裏にあった悲しい事実にも衝撃

 「人生フルーツ」という映画の主人公、日本住宅公団のエースだった津端修一さんの話も衝撃でした。東大から高座海軍工廠へ配属され、戦闘機設計に携わった津端修一中尉は、一千名の少年工と共に三菱航空機名古屋工場へ赴任し、そこで少年工のリーダー・陳清順さんと巡り合います。戦争が終わり、陳清順さんは自分で彫った「津端」の印章を中尉に贈り、夫妻はそれを実印として永く使用していました。
 津端夫妻は自らの生活を描いた新書発表会を台湾で開くことになり、陳清順さんの消息を調べました。そこで津端さんは、長く続いた戒厳令下の台湾で、陳清順さんが政治犯として銃殺刑に処せられたことを知るのです。
 2014年8月14日、津端夫妻は陳清順さんの墓を訪ねます。政治犯を大事にすることは許されなかったので、小さな石の墓が片隅にひっそり立っていました。ただ「陳清順の墓」と刻まれた文字は真っ赤に塗られていて、銃殺のとき流れた彼の血を思わせました。夫人が印章をていねいに墓前に埋め花を供えると、津端修一さんは墓前にひざまずいたまましばらく動きませんでしたが突然、墓石を抱えるようにして、「台湾軍」の歌を歌い出します。

太平洋の空遠く輝く南十字星
黒潮しぶく椰子の島
荒波吼ゆる赤道を


「優しいということは、人の傍らに憂いを抱いてたつこと」

 70周年歓迎大会や、台中で開催した「ありがとう台湾・がんばれ東日本コンサート」でお世話になったノーベル化学賞の根岸英一博士のすみれ夫人が先日天国へ召され、教会で告別式がおこなわれました。先の言葉は、その時の牧師さんの言葉です。「優」という文字は、人の傍らに憂いを抱いて立つことだと。若いころ、アメリカで根岸博士と共に苦労されたすみれ夫人は、その体験から多くの後進のみなさんに、文字通り優しく接しられたそうです。
 いま台湾は自由と民主主義の問題で大きな憂いを抱えています。強大な独裁国家が不法な圧力を加えているからです。台湾人のこの憂いを日本人は自らの憂いとして理解し、彼らの傍らに立たなくてはならない。その最初の行動目標が、東京オリンピックに台湾が台湾という名で参加できるよう支援することだと、私は思っています。

 


台湾高座会留日75周年歓迎大会が歴史に残すもの

台湾少年工(海軍軍属)顕彰碑

八千の台湾少年雷電を造りし歴史永遠に留めん     石川公弘
北に対き年の初めの祈りなり心の祖国に栄えあれかし  洪 坤山
朝夕にひたすら祈るは台湾の平和なること友の身のこと 佐野た香

 顕彰碑は三首の歌と顕彰碑の由来から成り立ち、歌碑の由来は歓迎大会会長・甘利明氏が、その歴史的背景を簡潔に述べています。書は大和市教育委員石川創一先生にお願いしました。除幕式当日は、第二首の作者である元少年工で台湾万葉歌人・洪坤山氏の夫人・振振さんが、台湾から夫の遺影をもって参加されます。
 歌碑は座間市栗原の芹沢公園の高台で、高座海軍工廠跡の工場群を近くに臨み、終戦間際に爆撃を避けるため疎開した地下工場を眼下に臨む場所にに建ちます。三首の短歌は岳精流日本吟院師範三人による詩吟で披露されます。


留日75 周年歓迎大会記念誌(永久保存版)

 もう一つ留日75周年歓迎大会が歴史に残すものとして記念誌があります。留日50年、60年、70年とその都度、記念誌を編集してきましたが、おそらくこの留日75周年が大規模なものとしては最後になるので、特にきちんとしたものを残したいと考えます。
 今回は特に台湾高座会新竹区会の事務局長・廖受章さんが、当時の生活を活写した素晴らしい原稿をお寄せいただいたので、これをこの記念誌の中心に据えます。廖受章さんは終戦のとき15歳といいますから、おそらく今年は90歳。400字詰めの原稿用紙に25枚、1万字以上の原稿は丁寧に手書きされています。


 それも近年は緑内障を患われ、両眼とも0.05の弱視とのこと。その記憶力、文章力に驚嘆しました。「高座時代はつらかった、何度も泣いた、しかし充実した誇りを持てる2年間だった」と言われます。必ずや皆様の魂をゆさぶることでしょう。
 また、台湾から今回来日される方々の7日間を追って、顕彰碑除幕式や歓迎大会の模様など、その時々をカメラに収め、同時に編集したいと考えています。参加される日台双方の参加者全員の名前も記録として残します。そのため、編集には時間をかけ、皆様のお手元には2019 年に入ってからのお届けになります。昭和、平成の時代を色濃く残す記録になります。心からのご協力をお願い申し上げます。